デッキブラシやゴミバケツ、新聞紙やライターなど、身の回りの道具を使ってリズムを作り出す『STOMP』が、先週、グアムを訪れ、9月20日から25日の間、フェニックスシアター(ファザードゥェナス高校内)にてパフォーマンスショウが披露されました。
入れ替わりの激しいオフブロードウェイの中で、17年に渡りロングラン公演しているだけあって、抜群のリズム感とスタイリッシュなダンスは、観衆らを魅了。体に響いて感じるリズムが、実にニューヨークらしいショウでした。
メンバーの数人は、スケジュールの合間に地元の学校を訪れて無料ライブやサイン会を行い、子供たちにパーカッションパフォーマンスの楽しさを披露したそうです。
小さな南の島だからこそ、近距離で接することができるワールドクラスの人々。これからも、このような機会が増えると良いですね。
(大門寺 文右衛門)
先週は朝から雨が降ることが多くて、「まだ6時?」と思っていたら実はもう7時だった、、、なんていうのが多かったけど、週末から、お天気が回復してきました。
朝から晴れているとチョッとくらい眠くても、元気に1日のスタートができます。
(ピカル)
今回ご紹介したマシュマロのオモチャ。
昔、キャンプ先でマシュマロを焼いていたら火がついてしまい、消そうとして枝をブンブンと振ったところ、マシュマロが枝から離れて、炎をあげながらもの凄いスピードで飛んで行ってしまいました。
ところが、そのマシュマロが、遠くにいた友人に命中\\(*o*)//オォォ。
手首にベッタリと張り付いて、火傷させてしまった苦い経験を思い出しました。
行楽の秋、アメリカ風にマシュマロを焼くときは、火がついても決して枝を振らないようにしましょう、、、(苦笑)
(パール)
今からちょうど5年前の2006年9月26日、「東京ローズ」の一人であるとして、国家反逆罪に問われたアイバ戸栗ダキノ(アイバ戸栗郁子)さんが亡くなりました。90歳でした。
1916年7月4日、日系アメリカ人2世としてロスアンゼルスで生まれた彼女は、アメリカの独立記念日に生まれたことをとても誇りにしていました。
カリフォルニア大学で医学を学んでいてた彼女は、大学院在学中の1941年7月に、叔母さんのお見舞いのため半年の予定で日本を訪れますが、大東亜戦争が開戦したせいで、アメリカに帰れなくなってしまいます。
戦時中、特高警察から日本国籍への帰化の圧力を何度もかけられましたが、拒否し続け、アメリカ人として日本に滞在していました。
日本での生活のため、外国の短波放送傍受の仕事に就きます。1942年からは、日本放送協会海外局米州部業務班でタイピストとして勤務。1943年11月から、日本軍の対外宣伝(プロパガンダ)ラジオ番組、「ゼロアワー」の女性アナウンサーとして、曲紹介などをしていました。
英語を話す女性アナウンサーは複数存在していましたが、本名が放送されることはなく、当初は愛称も付けられていませんでした。
戦地で疲れているアメリカ兵に対し、魅力的な声や口調で刺のある内容を話すことから、彼らが名付けた愛称が、「東京ローズ」だったのです。
終戦後、自分が「東京ローズ」であると公言したのは彼女だけ。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により、反逆罪容疑で巣鴨プリズンに投獄されますが、証拠なしとして釈放。
アメリカに帰国後の1948年6月、カリフォルニア州の検事から「対日協力者」として、アメリカで最も重罪である国家反逆罪で起訴されます。
1949年7月5日、カリフォルニア州サンフランシスコ連邦裁判所で、陪審員裁判に掛けられ有罪に。禁錮10年と罰金1万ドル、アメリカ国籍剥奪などを言い渡され、女性として史上初の国家反逆罪となりました。
6年2カ月の服役後、模範囚として1956年1月27日に釈放されましたが、アメリカ国籍は剥奪されたまま。それから約20年後の1977年1月19日、フォード大統領により特赦が出て、再びアメリカ人としての権利を取り戻します。
ほかの人たちが偽証したり彼女を告発しようとも、それでも彼女は自分がアメリカ人であることを誇りに思い、忠誠心を失うことなく、己を貫き通したのです。
(Tom Slater/66.20kg)